金村修が教えてくれる
いやぁ~「漸進快楽写真家」読んでいたら脳みそからドーパミンがあふれまくりだ。
いくつかの言葉で今までの自分から自由にしてくれた。
「考えてもいいことはない」「それよりとりあえずシャッターを押すべき」「写真は自分の内面を問わなくてもいいからすごく健全な芸術だと思う」「写真は民主主義の子供なんかじゃない。誰にでも分かってもらうためにやっているわけじゃない」
うまくとれたと思う写真があって、それの二匹目のどじょうを狙おうと同じようなシチュエーションで同じカメラでひたすら同じ場所に行くというのも写真の楽しみだし、そういった自分に嫌気がさして、カメラを変え(できればフィルムフォーマットも変えて)、受動的にミラクルを待つのも写真だからこそできる楽しみだ。
写真は悩まない。そもそも無から何かを生み出したいのなら小説家や絵描きや宗教家になればいい。写真はそこにあるもの以上のものは写らない。ある種、無神論とかそういったもので、マルクスとかパンクに通じるものだ。もっというと20世紀的なものであり、「俺が俺が」という自我から解放され、思考停止の「人生どざえもん」的な棄てばちさに身をゆだねる心地よさ。身を捨てて浮かぶ瀬もあれ、ってな感じか?
なんか、またシャッターを押しまくりたくなってきた。